小説 昼下がり 第六話 『冬の尋ね人。其の一 』



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072-853-7930
代表者:木山 利男


 「静かでいい街よ。今は特急セマウル
号が開通したばかりで、ソウルから釜山
(プサン)までは、五時間半はかかるけ
ど、途中の太田(テジョン)までは二時
間半で行けるって、母の手紙に書いてあ
ったわ。
 私がいる頃は、京釜(キョンブ)鉄道
の急行で何時間、掛かったかしら? も
う忘れたわ」
 秋子は窓の外を眺め、青春期を過ごし
た異国の地を懐かしむかのように、穏や
かな表情になった。
 秋子は言葉を続けた。
 「私の代理として、母に渡して欲しい
ものがあるの。もちろん、往復のチケッ
トは私が手配するわ」
 啓一はしばし黙り込んだ。深い意味が
あるわけではない。
 気持ちの整理をしているだけだった。
 「解った。まかせてー。一泊だったら
大丈夫、有休を取るから。
 正月明けの十日頃にしようか。詳細は
また教えてー」
 「ありがとう啓ちゃん。じゃあ、一緒
に帰ろう。途中、緑町の駅裏の屋台で一
杯、やんない?」
 「夕食は大丈夫なの?」

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 「大丈夫よ。妙子が他、三名様の用意
はしているわ。彼女、今、冬休みでしょ
う。今晩、遅くなるって云っているから」
       (二十九)
 外は糸のような細かい雨が絶え間なく
降っている。
 所々(ところどころ)に、雪のようなもの
が混ざっていた。
 「見て! 啓ちゃん、霙(みぞれ)だわ。
傘はいらないね。さあ、行きましょう」
 啓一は、秋子のはしゃぐ姿を見たのは
初めてのような気がした。
 身体を寄せ合い、手を組んで歩く姿は
恋人同士と勘違いするかのようだった。
 ―緑町駅前は歳末の雑踏(ざっとう)で
ごった返していた。
 あわただしさはピークを迎えていた。
 その東裏の隅に、小さな屋台が軒を構
えていた。
 古ぼけた椅子が五〜六脚、無造作に並
んでいる。お客はまだ居ない。
 「源」と記されたあか提灯が眼を引く。
 関東煮の匂いが食欲をそそる。
 足元には七輪が置かれ、真赤な練炭
(れんたん)が顔を覗かせていた。
 「源さん、熱燗お願い。啓ちゃんは?」
 「私は酒はちょっと…。ビールでー」

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 「まあ、熱燗だめなの。そうね、此間
(こないだ)、透とウィスキーばかり飲んで
たわね。こんなに美味しいものがだめだ
なんて、あなた不幸よ、ねえ、源さん」
 「秋ちゃん、相変わらず元気がいいね。
衰え知らずだな」
 青と白の斑(まだら)模様の手拭いを、
額に捲(ま)き、厚手の法被(はっぴ)を
身に着けた、浅黒い精悍な顔つきには、
年輪を刻んだかのような落ち着きが感じ
られた。
 「啓ちゃん、私ね、ちょくちょく一人
で来るの。あなたたちが居ないとき、夕
食を作らなくていいときにね。
 源さんとは古いの」
 「秋ちゃんの亭主が亡くなる前から、
ここでやっているからね。
 ところで秋ちゃん、杉本を呼ぶかい?」
 源さんは、秋子のことを知り尽くして
いるかのようだった。
 啓一は七輪で暖を取りながら、二人の
会話に聴き入った。
 「いいえ、今日はいいわ。啓ちゃんと
一緒だから。今日はだめー」
 源さんは、啓一の顔をするどい眼光で
見詰めた。
 「なるほどね……」と、一言。

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